2010年3月7日日曜日

型をとる

DNAの、ある領域が、タンパク質を合成する。

そのとき、ひもが、ぐぐぐーっと立体的に{蓑・枠}を構成する。そして、この枠の中で、タンパク質が合成される。

これは、DNAの一部が、「自動的」に集合するのではない。そんな偶然が怒るわけがない。

ふらふらとよってきたタンパク質1分子に、くっつくようにして、DNAが、くちゃくちゃっと、まとまる。

そして、そのまとまりから、タンパク質1分子が、ぽろっと抜けて、開いた穴に、別の、アミノ酸が集合してきて、同じタンパク質1分子を、つくる。

合わせ鏡の関係。

石膏で、型を取って、複製するのと同じ。

最初に、複製したい、「対象物」がある。

それを、石膏で、かたどる。

石膏を、形が崩れないように、ばらす。
そして、真ん中の「対象物」を取り除く。

石膏を、元に戻す。そして、その穴の中に、対象物の原料を、入れる。

その中で、原料が固まって、対象物が複製される。

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DNAが、そんな感じで、タンパク質分子を合成しているなら、そんなに、きっちりかっきり、していなくてもいいのではないか。

「アデニン・グアニン・シトシン・チミン」の、4つが、やってきたタンパク質1分子に対して、ちょうど、くちゃくちゃっとまとまるとうな、様々な配列をしていれば。

すなわち、DNAは、3次元的に、くちゃくちゃっとする、ということは、その1次元配列は、緻密に計算された物ではなくて、タンパク質に応じてなんかいいように、適当にならんでいる、だけでは。

ということは、DNAそのものには、やはり、{意志・心}は、無いのではないか。

考えてみたら、当たり前で、「アデニン・グアニン・シトシン・チミン」だけの4つを、並べて、意志や心ができるはずはない。

その辺の糸に意志や心がないように。
(逆に、ある「糸切れ」が、その構成分子の配列により、予想もできない{複雑な・予想もできない}「振る舞い」(周期とカオスの間の振る舞い)や「自己複製」を行うならば、その「糸切れ」は生き物であったり、{意志・心(?)}を持っているといえるのでは。)


DNAは、タンパク質に対応する石膏、というだけ。

「心」は、石膏での複製の場合は、複製される前の、例えば「彫刻」をつくった人の{心・気持ち}である。

石膏でもなければ、複製された彫刻でもない。

DNAにより複製される「生き物」の場合も、その心は、DNA(ひも)にあるのでもなく、タンパク質にあるのでもない。

タンパク質の集合体の中で生じる、合わせ鏡の「像」が、心である。

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ダンスやラジオ体操の順番、空手や太極拳の型、合気道の関節技など、それを繰り返し繰り返し行う。
すると、体が、それを覚えて、頭で考えなくてもできるようになる。

「体が、覚える」と書くと、すごく神秘的というか、不思議な感じがするけれども、そんなものとは違って、実際には、やっている本人の体の体感、ぱっとある{動作・形}をとるとき、手や足の力の入れ具合、その感じ、という程度。

ボールを投げるとき、投げる人は、全身や手、脚を、一瞬で、心の中の体感で、その動作をする。ダンスや武道の場合も、体の中の体感。それを、一つの「ぱんっ」と手をたたいたときの瞬間に、全部一緒に「ぱんっ」とあわせるだけ。ボールを「ぱんっ」と投げるのと、変わらない。

「その形になろう」として外観的にやっているわけではなくて、内部の感覚で、「ぱんっ」とやっているだけ。

それで、ある一定以上やった物は、10年たっても忘れない。技の名前も順番も、すっかり忘れて、動作だけを、体が覚えている。

型でも、試合用に、とか、一定以上やった物は、一生、忘れることは無い。しかし、少ない回数しかやっていない物は、わすれている。関節技も同じ。ある一定以上の回数で、回路ができるみたい。

それは、自転車の乗り方や、キーボードのブラインドタッチ、日本や外国の言語を覚えること、かけ算の九九、すべて同じで、回数があるみたい。

 回路形成(閾値)=(体感・内部の感覚)×(回数)

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