に、
(引用)
-----------------------------
>ただし、この本を読んでも何が限界なのか、なぜ離散化が必要なのか、どうし
てセルオートマトンなのか、なぜ方程式でなくて離散シミュレーションなのか、
わからない。ひたすらセルオートマンによるシミュレーション(実は何について
のシミュレーションだかよくわからない)だとか、時空をネットワークグラフで
表現する方法(どうして時空をグラフ化するのか理解できない)だとか、方程式
をコンピュータシミュレーションに置き換える手法(これについては全く理解で
きない)が書いてあるばかりである。
-----------------------------
とあるけれども、これの答えは、ひょっとしたら、「離散的手続きから生まれた
マセマティカが説明できることは、離散的手続きで説明できる。他方、LISP で
はないFortran等のプログラムでは方程式を扱えるのに、数学ソフトが構築でき
ない。従ってこういう原理からは物事は説明しきれない。」ということではない
かと思った。
ウルフラムは、自身のプレゼンテーションで、マセマティカと、NKSと、検索シ
ステムのアルファの3つを軸に説明している。(アルファの構築原理は分からな
いけれども、)これは、離散的手続きから、全てのことを説明し、理解する、と
いう、ある意味シンプルな概念が、その根本にあるのではないだろうか。
(2010.5.7 追加)
Re:> http://kashino.exblog.jp/2951597/
という見方は、ひょっとしたら表面的な見方かもしれない。というのは、離散や、セルオートマトンは、表面的なもので、その奥には、「”再帰的手続き”をもとにして、物事を根底から見直す」というのがある。
そして方程式による教科書的見方は、マセマティカの範疇にあり、ウルフラムの手中にあるものであるが、これを壊してまで、マセマティカのさらに根底の原理から、科学の見方を再構築する、そしてそれは、いわゆる複雑系が扱う、「物理学や生物学が取り残した複雑な分野(相互作用、気象、生態系など)」だけではなく、「物理学や生物学そのもの(!)」でさえ、再構築する、という、構造的な意味があるのではないだろうか。
上で、
返信削除>全てのことを説明し、理解する、
と描いたのは、マセマティカ(LISP的プログラムにより、数学を理解する)、NKS(実はマセマティカにより物理・科学を理解する)、アルファ(LISP的プログラムによる人工知能を目指す)というような、「知能」が行う説明や理解、というイメージ。
NKSで科学を新しく構築しようとしているけれども、
>なぜ離散化が必要なのか、どうし
てセルオートマトンなのか、なぜ方程式でなくて離散シミュレーションなのか、わからない。
に関しては、ウルフラムの手中にマセマティカがあるのだから、マセマティカ的(というか代数的)方程式の世界感で科学を理解しシミュレーションし構築することも可能のはず。
しかし、マセマティカは、離散的(LISP)プログラムからできている。であれば、本質はマセマティカよりもう一段深いところにある離散的世界観ではないか、と思うのが、自然なのでは。(A)方程式(連続)の世界観と、(B)シミュレーション(離散)の世界観と。
(A)←→(B)の関係が対等、すなわち、
(A)で(B)が説明(記述)できて、(B)で(A)が説明(記述)できるなら、離散で新しい科学を構築する、というより、離散は見方のオプションの一つにすぎない。しかし、(A)(方程式的連続世界観)では(B)(離散的世界観)を説明(記述、構築)できないけど、(B)で(A)を説明(記述、構築)できるなら、、本質は(B)という結論になる。事実、マセマティカ(A)は(B)(LISP的世界観)で構築されているけれども、(B)により構築された(A)は、(マセマティカを上回る、別の原理を基にして構築された数式ソフト)は、存在しない。
そして、マセマティカをそぎ落としていって、科学の説明に近いのは、マセマティカの方程式ではなく、セルオートマトンであった・・・というのが、マセマティカを創った人の結論だったのでは。こっち(B)ですべて構築した方が自然である、と。